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夜明け前

もともと藤村の「初恋」の詩は好きだったのですが、ふとした弾みで他の詩を読んでみたいとこの年になって(苦笑)思い立ち、『島崎藤村詩集』を紐解いたみたのです。
そうしたら、藤村の自序の簡潔で無駄のない文章にすっかり心惹かれてしまいまして、ぜひ散文が読みたいと思い、まず『千曲川のスケッチ』、続いてこの『夜明け前』を手に取った次第なのですが。

いや、あの、すっごく面白かったです。
日本文学の名作という以上に極めて優れた歴史小説だと思いました。
更に(語弊がある言い方かもしれませんが)言うと、「司馬史観以前」の幕末物という意味で興味深い作品とも。
新撰組も坂本龍馬もさらりとしか登場しない、ほぼ同時代に近い視点での幕末史という点で、大変興味深く読みました。
最近の幕末史の記述だと、どうしても佐幕か勤皇かに偏ってしまうのに、主人公が筋金入りの勤皇であるのにもかかわらず、幕府側にも目配りの利いたバランスがとれた記述になっているのは、やっぱり親世代の時代のことでいろいろ生々しいということもあるのかも。時代を解釈するというよりは事実の積み重ねというルポルタージュという側面が強く、歴史観が一貫していないという批判もそこから来てしまうのかもしれない。

主な舞台を馬籠に置いたことによって、木曽の山奥深くにありながらも主要街道の宿場として外部との往来の絶えないこの地で幕末維新の歴史を定点観測するという叙述が魅力的。
時折江戸や横浜の描写を交えて補っている部分はあるとは言え、木曽の山奥の集落にあってもアンテナさえ上げていれば(主人公に高い教養と社会情勢への深い関心があるというのも大きい)あれだけ情勢が把握できるということは、参勤交代による主要街道の人の行き来がどれだけ多くの情報を沿道にもたらしていたかということを示していて、非常に興味深い。
解説によると、馬籠を中心とした木曽街道の当時の様相の、詳細な描写は一次史料(馬籠宿役人の日記)に負うところが大きいということですが、それにしても開国をめぐる幕府側と各国代表との息詰まるやり取りや、山場の一つである天狗党の乱の始末の、緻密で迫力のある叙述は素晴らしく、ぐいぐい引き込まれた。

終盤、小説の主眼が歴史の叙述より主人公の内面の描写に移ったのは、前に挙げた日記史料が明治初年で終わっているためとのことですが、維新に失望した主人公のアンテナが受信能力を失い、ひたすら自己の内面に閉じこもって行く流れと見えて、全く不自然ではなかった。
寺への放火未遂が主人公の狂気を決定づける事件になったことを考えると、物語の当初から主人公の仏教への複雑な意識に随所で言及しているのは、実に丁寧で周到。

そして、簡潔かつ無駄のない文章で繊細かつ生き生きと描き出される宿場や本陣の日常や、木曽の四季の移り変わりの描写が何より魅力的。

名作文学の底力を見せ付けられる思いがしましたよ。
楊翠霞 * 読書感想文 * 12:52 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

R.サトクリフのローマン・ブリテン四部作を読み終わった

映画「第九軍団のワシ」を見て、原作を再読したら、サトクリフの描く古ブリテンの世界にハマってしまって、一気に読んじゃいました、ローマンブリテン四部作。

第二作『銀の枝』は、『第九軍団のワシ』が舞台となった五賢帝の一人ハドリアヌス帝(位117-138)の時代から下った軍人皇帝末期が舞台。ブリタニア皇帝を僭称していたカロウシウスが配下のアレクトスに打倒されたものの、そのアレクトスを、西方副帝(のちに西方正帝)コンスタンティウスが破った296年の史実をもとにして、『ワシ』のマーカスの血筋の二人の青年、フラビウス(アクイラ姓と南の丘陵地帯の農場、エメラルドの指輪を継いでいる直系の子孫)とジャスティンの活躍を描くわけですが。
カロウシウスを支持して、アレクトスに追われるフラビウスとジャスティンが、カレバのアクイラ家(ホノリアという親族の女性が住んでいる)の地下で、マーカスが封じた第九軍団のワシを発見し、対アレクトスのレジスタンス軍のシンボルとして押し立てる場面がとても感動的で、『ワシ』との世界観と物語の連続性が強く感じられるものになっていましたね。
展開がものすごーくスピーディーで、やや詰め込み過ぎ?前半はもう少し整理して「おんぼろ軍団」が結成されるくだりがもっと丁寧に描かれているのが読みたかったな。特に剣闘士パンダラスの描き込みは、この人物造型が後続の『王のしるし』のフィドルスに引き継がれるとは言え、中途半端感が否めないのが残念。バラのモチーフとか魅力的だっただけに。
でも、クライマックスのカレバ攻防戦は凄まじいばかりの迫力で、『ワシ』の読書感想で、むしろこちらの方が映画に向いてるんじゃないかと思ったのですが。続編としてでなくても、単独の作品として作れると思うけど。ネタ枯れハリウッドが食いつかないかしら。

長くなったので、畳みます。
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楊翠霞 * 読書感想文 * 23:10 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

第九軍団のワシ

てなわけで再読してみました、原作『第九軍団のワシ』。
やー面白かった。一気に読んだ。
映画のサントラ聞きながら読んでたら、むっちゃ盛り上がったよ!

で、やっぱり記憶通り、映画は特に後半を大幅に改変してましたね。でも改変の方向性はよく分かるし、悪くない。原作の良さ、映画の良さがそれぞれあるという感じ。
前半のイスカ・ダムノニオルムの砦の攻防は、もうイメージ通りで、完璧に脳内で映画の戦闘シーンが再現されてましたよ。
ただ、砦に赴任したマーカスを迎える時の軍団の微妙感はなかったし、闇の中の物音を気にしてスクランブルかけた時に副官にその判断は正しいと肯定されるし、「巡察隊が捕えられて砦の下で嬲り殺しにされる」のはマーカスのがそう危惧しただけで、実際は砦に戻ってきた巡察隊を救援するために出撃したというのが原作。映画の方が暗くてエグい。

そして、やっぱりマーカスはあんなに屈折していなかった。第九軍団の消滅は、映画ほどはマーカスの生い立ちに影を落としてなくて(母親の死後引き取られた叔母夫婦と折り合いが悪かったってくらい)、真っ直ぐで、明るくて、朗らかで、しなやかなイタリア青年という印象。
やはりチャニング・テイタムの残念感は否めないなー。屈折キャラはいいとしても、見た目もっとスリムなラテン系の人を使って欲しかった。
エスカは、脳内で完璧ジェイミー・ベルで動いていたくらいイメージぴったりだっただけに、余計に残念。
むしろブリトン人のエスカより、ラテン人のマーカスは小柄じゃないとおかしいだろというか、その方が萌ゆるのにって、え。
マーカスとエスカの関係性ももっとずっとシンプルでしたね。北に出発する前に、もう二人の絆は揺るぎのないものになっていて、出発の前に正式な奴隷解放証書を作ったりしてるのね。
だから、少なくとも二人の関係については、読者は何も心配しないで、確固としたものとして読み進めることが出来る。
サトクリフは割とバディ物が好きなのかしらね。続編の『銀の枝』なんか思いっきりそうだし。

第一、原作では、マーカスは現地語が話せて、直接北方の人たちとコミュニケーションが取れるし、ギリシャ人の目医者に身をやつしている(本業の医者にアドバイスをもらってるから、化けの皮がはがれる心配もない)から、映画のように「ローマ人とばれたら殺される」恐れもない。
まあ、映画のマーカス準備悪すぎというのと、原作よりも北方の「野蛮性」が強調されているというのもありますが。
マーカスはアザラシ族の人々と結構仲良くなったりして、アザラシ族も荒々しい狩猟民族だけど、子どもを容赦なく殺すような極端な残虐性はない。

ただ、ワシを奪った後の、「狩られる」場面の緊迫感は凄まじかったです。この辺りも映画の場面とシンクロしたな。
あと第九軍団の生き残りのグアーンが最後に二人に別れを告げるシーンには打たれました。映画の改変はちとおいおい…って感じもしないではないですが、原作のこのシーン(ローマ軍の百人隊長の姿に見えた)を拡大したものなのかな、と。

結局、映画は原作の追跡される場面の緊張感を、映画全編(特に後半)に拡大したということでしょうか。
主人公は父の不名誉な失踪をトラウマとして抱え込み、常に不安定な精神状態にあり、そのトラウマを刺激されたことがきっかけで北への無謀な旅に出る。彼に付き添う先住民の奴隷は、命の恩人であることもあり、表面は忠誠を誓っているが、その真意はいまひとつ分からない。主人公は奴隷と北方の氏族の交わす言葉が分からず、ひたすら疑心を募らせていく…みたいな。
アザラシ族の部落で、主人と奴隷の地位を逆転させたのは一種の倒錯趣味かしらって、え。

あ、嫌な政治家の息子に煽られたのも原作通りというのは記憶違いだったな。名門の出身で嫌な若手将校というのはいて、エスカを侮辱したりしたので、微妙な感じになったというのが原作。
ワシの探索に向かうという決定は、もっと理性的に行われている。
ワシの情報をもたらした、アクイラ叔父の旧友のクローディウスがめっちゃツボだったので、是非映画にも出して欲しかったー。エジプト人という設定なので、かっこいい中東系の役者さん(アフリカ系でもええ)にやって欲しかったー。
別に出してもバチが当たらない感じだったけど。

ヒロインのコティアの方は、映画の方向性を考えると、カットして正解(笑)。完璧少女マンガ。読んでてちと小っぱずかしかった。あ、コティアはアクイラ叔父が引き取ってるんじゃなくて、お隣さんだった。
オオカミのチビは、出しても良かった気がする。エスカと重なる部分があるから。まあ時間の関係がありますからね。
マーカスの父親が立派な最期を遂げたことは、原作のように敵から告げてもらった方がいいと思うな。

ラストは、『銀の枝』でのワシの再登場が本当に感動的だったので、映画も原作通りにして欲しかったかも。翼もげてないし。第九軍団の内部崩壊はカットされてるから、ワシの発見を大っぴらに出来ない理由の説明が難しくなりますが。
『銀の枝』、結構映画向きだと思うけど、続編としての映画化の話はなかったのかしら。「ワシ」は日本では単館ロードショー状態だったけど、本国では結構興収良かったんでしょ?筋立ては「ワシ」より込み入ってるけど、カレバ攻防戦を中心に整理すればかなりいいんじゃないかな。

ちなみにあとがきによると、カレバで発掘された翼のもげたワシは、当時信じられたように第九軍団のものではなくて、カレバの神殿に飾られてたものだそうです。残念。

この後『銀の枝』を一気に読んで、今『ともしびをかかげて』を再読中。めっきり古ブリテンにハマってる。昔から好きやってん、古ブリテン。
楊翠霞 * 読書感想文 * 23:02 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

中つ国の森にて

以前ちょっと書きましたが、『ホビットの冒険』読後に『指輪物語』を再読していたのが、やっと最近追補編まで読み終えました。続けて『シルマリル』も読むってゆってたのですが、手元にないというのと、主な読書タイムが通勤の電車内なので、あのハードカバーを持ち歩くのはなーとためらっている最中ですが。

読み始めてから、あんまりすらすら内容が頭に入ってくるんで、こんなに読み易い文章だったっけ?って混乱した(笑)。
いや一般的には「よみづらい」というイメージだし、自分も以前(映画が公開されていた頃)何度か読み返していた頃は「読み易い」とは決して思っていなかったので。一つの個所を何度か読み返さないと、情景が把握できなかったりしたものだったんですけども。
それが、今回は生き生きと情景が脳内に再現されるんで、逆に当惑したくらい。
文章が変わるわけないんだから、読み手の脳が変わったってことなんだろうけど。前の再読の時とそんなに脳がどうかなった気はしないんだがなあ。

しかし、そうなってから見ると、トールキンの情景描写力というか、架空の世界なわけだから、情景創造力というべきか、もう驚異的という他はないというのが分かってくる。
随所に登場する中つ国のパノラマ、山や川、森や野の佇まいの描写は、現実の風景を緻密に描き出しているかのようで、でも、それらはすべてトールキンの脳内で創造された山野なのであって。
ほんとに、どうやったら、こんな風にその世界の風景まで作り出せるんだろう、教授の頭の中を見てみたいと思いました。これはもう創造と叙述の天才としか言いようがない。

中でも強く印象付けられたのは、森の描写。
塚森の描写とトム・ボンバディルの表現に強く惹きつけられ、出発するホビットたちを見送るゴールドベリの描写で心の底からこの物語が好きになりました。
何と恐ろしくも美しく、重苦しくも軽やかな、古い憎悪と変わらぬ慈愛と謎に満ちた森の姿。
旅の仲間たちの足取りを辿っていても、やはり森を出てしまうと読んでいる方も不安感に襲われてしまうのですよね。

そして、マルローン樹の茂る透き通るような金色のロスロリエン、太古の息吹に満ちたエントの森ファンゴルン、素朴だが誇り高く高潔な野人たちの棲むドルアダンの森。
どの森も、全く違う色と匂いと空気を持っている。
そして、どの森も恐るべき力を秘めている。
それが形になったのが、ヘルム渓谷の戦いを終わらせたフオルンたちということになるわけです。
結局、森への憧憬と回帰というのが、この物語の大切な核なのではないかと思い至ったわけなのですが。

そうすると思い起こされるのが、映画「ロード・オブ・ザ・リング」(ぶっちゃけ邦題は「指輪物語」で良かったんじゃないかと今更小一時間)なわけなんですが。
(以下、結構映画に批判的なので、畳みます。映画のファンの方はお読みにならない方がよいかと)
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楊翠霞 * 読書感想文 * 21:19 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

児童文学とワタクシ

映画公開(結構先)に備えて、いまさら『ホビットの冒険』を読んだりしています。
で、読み始め数ページくらいで、みょーな既読感が。
トロルが出てくる辺りまで、それは続いて、その先でぷっつり。
…もしかして、子どもの頃に読み始めてみたけど、挫折したことがある?と、思い当たったのですけども。
なぜ挫折したかと言うと、子どもの頃は、「女の子が出て来ないお話」が嫌いで(笑)、いくら読んでも、可愛い女の子が出てこなかったので投げ出したという可能性があります。(映画では、闇の森の女エルフとか登場するようですにょ)

逆に女の子さえ出てくれば割と何でも良かった面も否めなかったですが、女の子が集団できゃぴきゃぴしていればなお良しということで、小学生の頃は、とにかく少女が主人公の海外児童文学を読み漁っていた記憶があります。綺麗な装丁の「海外少女文学シリーズ」みたいなのも出てましたし。
ほんとにいろいろ読んだけど、やっぱり一番好きだったのは『若草物語』と『赤毛のアン』シリーズかな。
『若草物語』は本当に好きで、自分のうちにあった文学全集の中に入っていたもの(割と完訳に近かった、と思う)から始まって、図書館に並んでいる版は全部読みまくって、挿絵とか訳文とか比べて、こっちよりこっちの方がいいとか言って悦に入っていたような気がします。
本屋で、挿絵がとても気に入った版を見つけて、欲しいとねだったら、父親に「もう持ってるじゃないか」って叱られますた。…結局買ってもらったけど。
今思えば、あれがオタク人生の始まりだったかも…(遠い目)。
でも、『アン』の方が長く読み続けたけど。大人になってからも、結構再読してる。

じゃあ、それなりに「女の子が出てくる」N国がなぜ大学生になるまで(「ファンタジーを考える」というゼミに出ていた関係で初めて読んだ)未読だったのだらう。「らいおんとまじょ」というタイトルが自分的にイケてなかったのかなー。原題通り「らいおんとまじょといしょうだんす」だったら、興味持ったかも。どう違うのかはうまく説明できませんけども。

で、『ホビット』ですけども。
ギムリ父とかレゴラス父とかエルロンド様ご本人(ものの見事にエージェント・スミスの顔が浮かんでしまった)とか、『指輪物語』につながる人物はもちろんなんですが、その他いろいろトールキン・ワールドのキーになる言葉が出てきて、いろいろ確かめたくなったので、また『指輪』を読み返してます。
これ読んでから『指輪』に取り掛かった方がいろいろ理解しやすいんじゃないかなって思いました。
でも、『指輪』で「オーク」となっているのが、『ホビット』では「ゴブリン」になっているのは、何ゆえ?
フィーリとキーリがちょっと気に入ってたので、悲しかった。
あと、本文中に、馳夫さんみたいな人が出てくるんだけど、一瞬。ヴィゴはまだアナウンスされてないよね?つか噂すらないような。

『指輪』終わったら、図書館で『シルマリル』借りてきよー(買えよ)。映画公開のタイミングで文庫化したりとかしないかしらん。
楊翠霞 * 読書感想文 * 07:37 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

闇の左手

「…国家を憎んだり愛したりすることができますか?(中略)わたしはそういう芸当ができない。わたしはその国の人間を知っている、その国の町や農場や丘や川や岩を知っている、山あいの畑の斜面に秋の夕日がどんなふうにおちていくか知っている、しかしそうしたものに境をつけ、名前をつけ、名前をつけられないところは愛してはならないというのはいったいどういうことだろうか?国を愛するとはいったいどういうことだろうか?国でないものを憎むということだろうか?そうだとしたら、いいことではない。では単なる自己愛だろうか?それならいい、しかしそれを徳としてはならない、公言すべきではない…わたしは人生を愛する限りエストレ領の山々を愛するが、この愛には憎悪の境界線はない。その先は憎悪ではなく無知なのだと思う」(A.K.ル・グィン、小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫)

折に触れて読みたくなる本なので、もう何度再読したか分からないんですが、最近、愛国心とかナショナリズムということで考えさせられることが多かったせいか、今回、印象に残ったところ。
愛国心ということについて、自分の取るべきスタンスを再確認できたような気がして、何だか安堵しました。

生物学的な「性差」が全くなくなった社会が、どのような行き方をするのか、という一種の思考実験が主な主題になっているのは確かなので、どうしてもジェンダーとかフェミニズムといった文脈で語られがちな作品なんですが、個人的には、物語そのものが内包しているもっと大きなテーマ―互いに異質な存在が、文化、民族、人種、性差の壁さえも乗り越えて心を通い合わせることができるという可能性―の方に、強く心惹かれます。
極寒不毛な氷原の上で、二人の主人公の心が初めて通じ合うくだりは、この上なく美しくて、何度読んでも心が揺さぶられる。
それが、緻密に構築されたゲセンの社会を土台にしているから、余計そこに描かれる人と人との関わりの普遍性が実感を持って迫ってくる。
人間性に対する深い信頼というのかな。それが何より素晴らしいと思う。

ル・グウィンと言えば、最新作の『西のはての年代記』、かなり前に図書館で借りて(←)読了してます。文庫化されたりするのかな?
『ギフト』は良かった。すっごく良かった。この本大好きだと思った。
『ヴォイス』はそこそこ。『ギフト』に限らず、ル・グウィン女史が構築する世界観って、村落共同体がベースだとすっごくいいのに、都市が舞台だとイマイチな気がします。(『闇の左手』のカルハイドとオルゴレインとかも、社会の描き込みに差がありすぎる。)
『パワー』は、挫折しますた…。あんまり話が痛かったというのもあるんですが、すっごく気に入っていた登場人物(某ナル兄にキャラが近いって、え)がものすごーく不幸になって、どうやらフォローも無さそうな見込みなので、辛くて読み続けられなかったんですよね…って、読了してないぢゃん。
楊翠霞 * 読書感想文 * 01:57 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

ナルニア国ものがたり(その2) 「若い獅子らは餌食に吠え」

くどいようですが、↓の文章は、児童文学『ナルニア国ものがたり』の正しい感想文で、萌(ryも腐(ryもひとっかけらもありません。なので、こちらのブログにエントリーしてます。あしからず。

その1から、だいぶ日が開いちゃったんで、マイナスイメージだけ先行してしまって、ちと申し訳ない状況に…。
こちらは、かなり肯定的な感想です。

先日、須賀敦子さんの本を読んでいて、須賀さんがローマ留学時代に出していたミニコミ誌『どんぐりのたわごと』の中で、C.S.ルイスのエッセイを和訳して紹介しているのをたまたま見つけたんですが、それがなかなか興味深い内容で。
正直、それまでの私の『ナルニア』観が一転したような気がしました。

エッセイは、1958年に刊行された『詩篇を考える』(“Reflections on the Psalms”)(須賀さんは『詩篇に関するエッセイ』と訳されています)に収録されていたもので、1956年の『さいごの戦い』の刊行に続く形になり、ほぼ『ナルニア』の思想的背景と重なると見てよいでしょう。

原作のネタバレがあるので、畳みます。つか、すげー長文になった…。

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楊翠霞 * 読書感想文 * 22:54 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

ナルニア国ものがたり(その1) 「さらに奥に」

↓の文章は、児童文学『ナルニア国ものがたり』の正しい感想文で、萌(ryも腐(ryもひとっかけらもありませんので、こちらの表ブログの方にエントリーしました。

以前、旧ブログの頃にも書いたのですが、『ナルニア』は今を去ることン十年前、学生時代に一読したきりだったのが、思いもかけず最近になって再読する機会を得たわけなのですけども。

旧ブログの2008年6月から9月にかけてのエントリーを見ると、よく分かるんですが、映画萌えに直結する『ライオンと魔女』、『カスピアン王子のつのぶえ』、『朝びらき丸、東の海へ』は、映画2章公開時に早々と再読していたのに対して、『銀のいす』以降は、少し間が空いて、エンデ作品と同じ時期に再読(それも二次(ryの設定固めのためって、おい)した関係で、大変生憎なことに、『はてしない物語』読了後に『銀のいす』を読むという順番になってしまったのですよね。

ネタバレがあるので、畳みます。で、上記のような事情もあって、このエントリーでは作品に対して相当批判的です。その2では、もっと肯定的な感想を書く予定ですが、その点はご了承下さい。
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楊翠霞 * 読書感想文 * 02:02 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

はてしない物語

しばらく前に、久しぶりに再読したら、結構映画「ネバーエンディングストーリー」(1章のみ。2章は観たけどほとんど記憶なし。3章は観る気にもならなかった)の場面が浮かんできて、懐かしかったです。
エンデ氏はお気に召してなかったようですが、結構頑張ってたと思うんですよね、あの映画も。…「蛇足」のお手本みたいなラストシーンさえなければ(-_-;。(ちなみに某児童文学の4作目もそんなオチ。もし映画になったらどうなるんだらう。ベンさんがいじめっ子退治って)
つい最近まで(何故か)箱根駅伝のテーマ曲に使われてたサントラとか、リマールの主題歌とか、超懐かしい。
CGとかが発達する前のことなので、視覚効果的にはかなり素朴なんですが。今なら、カイロン先生もケンタウロス姿で視覚化できるのにねん。(何故か萌えてみるふふふ)
再映画化の話とかないのかな。

以前、『モモ』の感想を書いた時(こちら)、世界の造型がシュールレアリスティックだと指摘しましたけども、『はてしない物語』は異世界物だけに一層モダンアート的な世界観になっているので、ティム・バートン辺りのセンスでまた映像化すると楽しいじゃないかって思いますけども。
内容が全くブラックでないので、そこはちょっと違うかもですが。


以下、ネタバレがあるかもなので、畳みます。
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楊翠霞 * 読書感想文 * 17:29 * comments(0) * trackbacks(0) * - -

地図のない道

BS朝日で放送していた「イタリアへ…須賀敦子静かなる魂の旅」という番組を何気なく見て、イタリア紀行の番組にも関わらず、タイトルの通り、ひたすら静かなその叙述に何とはなしに心を惹かれ、書店の店頭で見かけて手に取ったのが、新潮文庫版の『トリエステの坂道』。
そこに描かれた、須賀さんの暮らしたミラノの情景が、私の知っているミラノの街の風景と重なる部分があるような気がして、無性にその情景が慕わしくて、一気に彼女の世界に引き込まれてしまった。そして、読了後に手に取ったのが、同じく新潮文庫から出ているこの本。

こちらは、須賀さんの実家のある大阪の情景を取り上げた一編を除いて、主にヴェネツィアの街についての叙述が中心だが、最後に収録されていたのが、「ザッテレの河岸で」という一編。
ヴェネツィア本島とジュデッカ島に挟まれたジュデッカ運河に臨むザッテレの渡し場の付近で、須賀さんが目にした“incurabili”「治る見込みのない病」という不吉な文字。しかもそれはかつてこの地にあった病院の名であると言う。
なぜ、そんな名で呼ばれる病院が存在したのか?
須賀さんの疑問は、その後、同じヴェネツィアで開かれていたコルティジャーネ=高級娼婦についての企画展を観た時の体験を通して、思わぬ結論へと導かれてゆく。
私は、優雅な生活を送ったコルティジャーネ(塩野七生氏は「遊女」という訳語を当てていたが)とは違い、社会の底辺で蔑まれ、虐げられ、わずかな肉体の自由すらも侵されて生き、死んでいった下級娼婦たちへの須賀さんの哀切に満ちた眼差しに心打たれながら読み進めていたのだが、彼女の想いはそこに留まるものではなかった。
今では使用されていないこの病院を訪れた須賀さんは、そこからジュデッカ運河を挟んだ対岸に、彼女がヴェネツィア中で一番好きな眺めだと記していたレデントーレ教会が正面に見えることに気づく。
そして、この教会の鐘の響きが、ペストの克服を祈って建てられ「人類の罪を贖う者」という名を持つ教会が介在する神の存在が、不治の業病に侵された女たちを慰め、魂を救ったのではないかと述懐し、自身もまた彼女たちの神に慰められたと告白するのだ。
そこにあるのは、最下層の娼婦たちを哀れむのではなく、彼女たちの視線に寄り添い、何とか暗い境遇から引き上げたいという、彼女たちと共にもがき苦しもうとしているかのような強い想いだった。あるいは愛と言ってしまっても良いかもしれない。

とにかく、この一編で、私は、決定的に須賀さんの世界にのめり込んでしまった。
彼女の作品に描かれた、身近な人々、特に社会の下層で生きる人々への視点の暖かさ、その背景に描かれるイタリアの町の情景が無性に好きだと思う。
3回訪問し、計12日間滞在しているミラノ(うち2回は完全な個人旅行)に対して、ヴェネツィアには団体で一度行っているだけなのだが、是非複雑に入り組んだヴェネツィアの路地で迷いながら歩いてみたいものだと思った。

ちなみに、須賀さんが好きだと書いていたレデントーレ教会は、サン・マルコ広場の周辺をうろうろしたのが精々だった私のヴェネツィア滞在では、当然観る機会などなかったので、ネットで画像を検索したところ、西日を受けた美しい写真が見つかった。個人の方のブログなので、リンクを貼るなどは避けたい。グーグルの画像検索では一番上に来るので、興味のある方は。
楊翠霞 * 読書感想文 * 20:07 * comments(0) * trackbacks(0) * - -
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